《狂おしき真夏の一日》三枝成彰作曲 林真理子書き下ろし 秋元康演出 at 東京文化会館 2017/10/28

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世に名の通った面々が作り出す《フィガロの結婚》のオマージュ《狂おしき真夏の一日》

《フィガロの結婚》の正式なタイトルは《狂おしき一日、あるいはフィガロの結婚》

チケットをもぎってもらってホワイエに入ると、今まで見たことのない数のお祝いの花飾りが所狭しと並んでいた。小室哲哉さん、石田純一さん、お菓子の鎧塚さんなどなど。一際目立っていたのは雑誌ananの白いカーネーションで作ったパンダ!上野だし、香香の人気もあって、写真を撮る人が絶えない。他ならぬ私めもミーハーでして、携帯でパチリ!(笑)

あらすじのあらすじ(笑)

医者の大石には息子が二人。長男は画家を目指すが芽が出ず、フランス人の婚約者とカフェを開く夢を見ている。次男はゲイでプー太郎。《フィガロの結婚》のように、大石(ほぼ伯爵)は女性が大好きで浮気三昧で、大石夫人は嘆く。長男は婚約者を使って父親(大石)を騙そうとし、次男(ゲイ)の恋人は女装して大石夫人に近づこうとする。すったもんだの挙句、最後は3組とも元のさやに収まり、大石の愛人だった看護婦(コジのデスピーナに近い存在)は自分も未来に向かって前に進むと言って去っていく。

省略しすぎてわかりにくいかもしれませんが、結局はオペラブッファの部類に入るオペラです。

結論から言うと、観客をどういう感情に引っ張っていきたのかよくわからないオペラだった。オペラの良さの一つはアリアの中で心情を深くえぐるところだと思うけど、いくつかあったアリアは深く訴えてくることはなかった。何故だろうと考えてみると、アリアの歌詞に持っていくプロセスが浅いこと、そしてそのアリアの歌詞と曲がフィットしていないと感じてしまったことだと思う。軽快に語って欲しいところで意外にも短調で重い伴奏だったりした。歌と合わせるように鳴らされる小太鼓がやたらに大音量だったりするのも感情移入するのを妨げた。

日本語のオペラの難しさでもあるのかもしれませんね。現代音楽特有の音の高低差の振れ幅は美しい日本を生かすものではなく、むしろ、歌わずにセリフとして語って欲しいと思ってしまったのは私だけはないでしょう。

唯一聞いていて心地よく、美しく響き、歌っている二人の心情に寄り添えたのが、第二幕の終わりの長男と看護婦の二重唱。初めての女性だった看護婦が父親の愛人を20年も続けていたことにショックを受けた長男に優しく看護婦が慰める二重唱。でもね、このふたりの関係って、このオペラでそんなに重要視されるところではないんです。三枝さんは何故ここにこのような音楽を持ってきたのか疑問です。それなら、最後に3組が順番に仲直りしていくところで、美しいアリアなり、二重唱なりを持ってくる方がオペラとしての主張と合うのではと思ってしまいます。

乱文で申し訳ありません。

最後にみんなでお決まりの大合唱になるんですけど、いろいろな愛の形があっていいじゃないという結論。

でも

大石は長男のフィアンセだと思って迫ったら奥さんで、そんな状況で奥さんはすぐに大石を許すんです。長男はフィアンセとラブラブする気にはならないといい、離れた位置にいますが、父親(大石)がカフェのお金を出してあげるというと、フィアンセに駆け寄ってラブラブするんです。そんな関係で、みんな幸せっていうエンディングはどうなのでしょうか?

昨今、《コジ・ファント・トゥッテ》でも、エンディングはハッピーエンドにしない演出が増えていますよね。《フィガロの結婚》でもそうです。夫人はすぐには公爵を受け入れ難いんじゃありませんか?

全体に色々と盛込みすぎてオペラらしい深い感情を沸き起こさせるところまでいっていなかったのがとても残念でした。

林真理子さんの小説は大好きだけれど、オペラの台本となるとまた、違うんだと思う。モーツァルトが、ダ・ポンテとタッグを組んだように、R・シュトラウスがホフマンスタールの脚本を採用したように、そしてワーグナーはワーグナー自身が脚本を書くことにこだわったように、作曲家が脚本に執着する意味がよくわかった。また、三枝さんの音楽は大河ドラマのオープニングには合っているかもしれないけれど、ことオペラ・ブッファには向いていないと思った。オペラ・セリエの方がいいかもね。

オペラを作るというのは本当に難しい作業なんだと思う。故に何100年も、公演され続けるオペラはやはり素晴らしい作品なんだと思う。

すみません、ちょっと辛口でしたでしょうか?

文句を言うは易し、オペラを創るのは難し!ですね〜。

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