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後半はこの4名の方々の座談会でしたが注目すべき発言は細川さんにありましたので、まずは、細川さんの言葉を要約します。(かっこ内は私の補足です。)
能は芸術性の高いものでインスパイアーされるものだと思うから、能の世界観を生かした作曲をしたい。能は世界でも注目されているが、正直、とんでもない演出になっているのがほとんど(客席〜笑)。この作品はブリュッセルのモネ劇場からの委嘱作品。能の真似ではなく、全く違う世界を創るならできると考えた(つまり、様式的には能とは全く違うが、能の世界観は生かしたいという意向だと思う)。演出も能の動きとは全く違うものとなった。
このオペラは、「囚われ」から、「解放」「浄化」がテーマで、現代人の悩みに共通している。人は現実に生きている世界と、心の中の過去や夢の中などの世界があり、音のトンネルを通して、(能舞台でいうと、橋掛かりを通って)行き来することが生きているということだと思う。このオペラはまさにその心の動きを表現している。
このオペラでは「風」が重要なモティーフで、合唱が、息の音でかぜを表現している。女性が憑依して「風」になり、「松」が行平ということで、歌によってこの二つが一体化し、一種のエクスタシーを経験できる。
私(細川さん)は常に、光と陰、強と弱、男と女 という、相対することが喧嘩をするのではなく調和することが大切だと、考えていて、これは宇宙の創造であるという考えで、今回の「松風」と「村雨」は一人の女性の陰と陽だと考えている。
「汐汲み」の場面について
天から「松風」と「村雨」がゆっくり降りてきます。その前面には網目の入った紗幕があります。宙吊りのまま、二人はユニゾンで歌います。(ここは前述のように二人はひとりの女性であることの表現かもしれません。)この網目の紗幕は人間の執着や囚われを表現しています。
音楽には聞こえてくるものと聞こえてこないものがありますが、聞こえてこないものを表現することが作曲者の役割であり、それを汲み取ることが、音楽を聴くことの喜びであり、素晴らしいことなのです。(例えば、音と音の間の間とか、ユニゾンで歌うのか、不協和音で表現されるのかなど、単に美しいとか、綺麗という表現では収まりきれない、音が紡ぎ出す抽象の世界を感じ取ることかなと思うのです。)
「狂乱」の場面について
サシャ・ヴァルツ(今回の演出家)は狂乱を身体表現で表している。私(細川さん)としては彼女の演出が一番気に入っている。(ビデオを拝聴しましたが、コンテンポラリーダンスで、狂乱を表しているようでしたが、音楽が十分にその様相を示していたので、私個人としては目を瞑って聴いてもいいかなぁと思ってしまいましたが〜笑)
柿木さんが海外での観客の反応をお話しされました↓
まずは《班女》ですが、これも「待つ」ということがテーマです。待っている間に恋人のイメージが増幅されていくのです。ベルリンでは工場を使って演出されました。
続けて《松風》はベルリンで2011年の夏に初演されました。再演を繰り返していて、チケットはいつも売り切れています。抽象的な表現がダンスと結びついてベルリンの方々に受けています。
とのことでした。
進行の宮本さんが、最後に一言ずつお願いします。と言われました。
とても素晴らしいことを皆さんおっしゃっていました。
それはまた次回に。
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最後までお読みくださりありがとうございました♪( ´θ`)ノ
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