《紫苑物語》 作曲家、西村朗さんご自身が語る!

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昨日、新国立劇場に、次期オペラ作品のラインナップの解説を聞きに行きました。その内容については前回書きましたが、後半に《紫苑物語》の作曲家である西村朗さんがお話になりました。前回、書けなかった《紫苑物語》の内容について、お伝えしたいと思います。

短い短編小説だけれど、いろいろな、多元的、多重的要素があり奥深いと西村さんは語り始めました。そして、台本作家と、何を言わんとしているのか、喧々諤々、話し合いをしたとのことです。

歌詠みの家に生まれた国の守、宗頼は、歌の世界に疑念を抱き、解き放たれたいが故に父親に弓を向ける。その弓は父親の烏帽子の紐のみを切ることとなる。これが1本目の矢「知の矢」である。自分は何に向いているのか探るうちに弓の道に傾倒していく。ところがそれもうまくいかない。殺めた狐が女性となって彼の前に現れる。2本目の矢「殺の矢」である。そこでは、まるで《トリスタンとイゾルデ》のような蜜月の時が流れ、まるで時間が永遠かのように感じられるひと時がある。

紫苑というのは勿忘草(と、西村さんはおっしゃいましたが、ネットで見ると、思ひ草となっていました。が、ここは勿忘草で通したいと思います)のことで、おのれが生きる足跡を残したいという気持ちを表している。

宗頼が桃源郷にいくと、平太に出会う。平太は仏をただただ彫っている。(平太は宗頼の分身と捉えている。)そしてそれを見た宗頼は仏に向かって矢を放つ。これが3本目の矢「魔の矢」である。この矢によって、仏は壊れて崩れ落ち、宗頼の周りも地平線もろとも崩落する。世界そのものがなくなってしまう。

後に残ったのは「鬼の歌」という、宗頼が自分の才能を集約して作った唯一の歌だった。宗頼自身の個体は消えるが歌だけは残る。

というように消滅する世界を描いている。

知の矢(精神的)と殺の矢(身体的)を結びつけているもの、形あるものとないものを結びつけているもの、それが目には見えない魔の矢であると捉えた。生きているから生きているのであって、何も意味はないという考えは人間はなぜ生まれて生きているのかと考えることと相対して暗喩的だ。《魔弾の射手》の3本の矢も想起させなくもない。

と、抽象的でわかりにくいようだけれど、宗頼が平太や、狐の化身などと絡むうちに、見えてくるものがあるでしょう。笈田ヨシさんの演出にも期待したいと思う。

大野和士さんが力説していた《紫苑物語》、原作は石川淳さん。短いとのことだから、一度読んでみたいと思う。そして、その短編から、西村さんたちが取り出したテーマを探ってみたいと思う。

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